ハンフォード核施設(ゲートから)
共同墓地を後にし、バスで核施設のゲートまで行きました。リッチランドの町からゲートまでは少ししか離れていませんが、施設の中は非常に広大で、どこまで敷地が続くのか想像もできないほどでした。
ハンフォード風下地区住民との交流会
18時30分からホテルで夕食をとり、19時30分から同じ会場で交流会を行いました(左の写真)。
司会のジューン・スターク・ケーシーさんの「広島・長崎の被害者たちに、個人的に心からお詫びしたい」という発言で始まりました。ケーシーさんは、2000年の原水爆禁止世界大会において、ハンフォードで行われていること、そこで自分自身が受けた被害について発言された方です。
日本からは、A班代表のN.T.さん(神奈川県原水協)、I.N.さん(静岡県原水爆被害者の会)、Y.H.さん(大阪学生平和サークル)ら3人の発言がありました。それぞれ、被爆した父への思いや、平和運動への自分の思いなどを語りました。
アメリカからは10人の発言がある予定でしたが、病気の様態が悪化したため参加できなかった人などもいました。発言したのは、放射線の被害にあった地域住民や、核施設で働いていた技術者などで、皆さん、体の不調を訴えるとともに、政府や会社への抗議の声をあげられました。
核施設で働いていた発言者の一人は、「働いている間はみんな安全なんだと思っていた。友人はすでにたくさん死んだ」と話されました。また、作業中に化学物質が顔にかかったという核科学オペレーターのB.W.さんは「14年間働いてきたのに、会社は何もしてくれなかった」と悔しそうでした。この人は夫のSさんと夫婦で働いていたそうですが、二人とも放射線や化学物質の影響で体調悪化がひどいなか、施設を訴える運動を続けています。
核施設で働いていた科学技術者のM.B.さんは化学物質の影響が深刻で、会社が保障してくれないため自己負担で6000ドルの医療費を支払って治療を受けたそうですが、仕事を辞めた今でも洗剤や香水の臭いで、疲労、頭痛、しびれ、息切れなどの症状が出るそうです。流産も2回経験したと言っていました。
(つづく)
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